里山って いいな

里山・低山の魅力を伝えていきたいと思います

「桃太郎」の昔話もいいけれど、キツネがちょっとだけ悪さをする「令和の山怪」話があってもいいのでは…

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 「おはようございます」
 北高上緑地・西入り口。
 解錠を待ちかねていたように、若い男女が里山に足を踏み入れてきた。
 そのカップルを、その日最初の訪問者として迎え入れる格好になったのが、日進里山リーダー会のある会員。仮にAさんとしておこう。
 朝の挨拶に続いて二事三言、言葉を交わした後、その女性が、こう続けた。
 「そういえば先日、北高上緑地の中で野犬を見ました」
 実は当時、同じような通報が市役所に何件か寄せられていた。
 ただ、それは「野犬ではなく、きっとキツネだろう」というのが大方の見方だった。
 「ああ、それは、たぶん、キツネだと思いますよ」
 そして、茶目っ気たっぷりに、こう付け加えた。
 「そのキツネに騙されないように」
 こんな朝早くからキツネに騙される話なんて聞いたことはない。が、ジョーク好きなだけに、Aさんの口から、ついそんな言葉が漏れてしまった。
 「ありがとうございます」
 くすっと笑いながら礼を言い、登り坂に向かって歩き始めたカップルを、Aさんはしばらく見送っていた。
 その女性がとても魅力的だったからだ。
 すると、その女性がふと足を止め、振り返った。
 そして、にっこり微笑みながらこう言った。

 「私も、人間を騙すのが大好きなんですよ」

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 これは、Aさんから聞いたある朝の出来事を再現したものだ。Aさんの語りがとても上手なので、ついつい引き込まれてしまった。すぐに創作半分と気づき、面白くて思わず笑ってしまったが、一瞬、背筋が少しぞくっとするような納涼感を味わうこともできた。ほんとの話なら、かなり怖い。
 私はこの手の話が好きだ。
 つい最近も「山怪」(田中康弘著・ヤマケイ文庫)という本を読んだばかり。キツネの話が数多く紹介されていたので、Aさんから聞いた話を、ふと思い出した。この話を聞いたのは、今夏。暑い盛りのころだったと思う。
 そういえば、ずいぶん昔、キツネの話を聞いたことがある。母からだった。
 「早く帰ってこないとキツネにさらわれるよ」
 友達と夕方まで遊び惚けていて帰宅が遅くなると、決まってこう叱られた。
 だから、怖い体験を実際にしたわけではないのに、キツネが怖かった。
 幼いころ、私は東京・東中野に住んでいた。JR新宿駅から2駅目の民家がひしめき合う住宅街だった。それでも、近所には鬱蒼とした雑木林もあった。だから、キツネがいてもおかしくはなかった。キツネの話を聞かされても、違和感はなかった。

 長い長い年月が過ぎた。だが、あれ以降、キツネの話は聞いたことはない。
 田中さんが著書の中で、こう書いている。

大家族が一緒に囲炉裏の火を見つめながら食事をし、そして話をする。…山の不思議な話は定番だったに違いない。…古(いにしえ)の時代、目の前に山があったからこそ、そこで生活ができた。人は山から飲み水、食料、そして燃料や多種多様な材料を手に入れる。自然の中にさまざまな神を感じ、生きる指針もまた見出してきた。生きることのすべては山にあったとも言える。その中には"語り"もまた大事な位置にあったはずだ。

こんな指摘をしたうえで、次のように強調している。

それ(語り)が今ほとんど消滅しかけている

そして、巻末ではこう結んでいる。

語りが消えつつある地域では、同時に活力も失われつつある。…若い人たちは街へ出ていき、山村は爺婆のみになってしまった。彼らが山怪を語る相手はすでにない。そして、大切な語り部である爺婆もそのうちいなくなるのだ。爺婆の山怪話、今や間違いなく絶滅危惧種となったのである。

 私が今住んでいる地域には、以前、小さな里山が幾つもあった。しかし、この50年ほどの間に開発が進み、たった一夜でこんもりとした里山が消滅したこともあった。
 振り返ってみれば、「キツネにさらわれるよ」と言って自分の子どもを叱ったこともなかった。
 それもそのはず、キツネが棲んでいたであろう里山そのものが次々となくなってしまったのだから。

 里山の位置づけは、昔と今ではずいぶん変化してきた。
 私の場合で言えば、北高上緑地で活動をしている仲間の輪に加わった動機は、里山保全という社会的な意味だけでなく、「健康増進と老後の生きがいづくりにもつながる」というものだった。言ってみれば、"自分レベル"の比重も大きかった。
 だが、自分レベルの動機はともかく、里山保全活動は、里山そのものの保全だけでなく、『里山文化を継承していくことも含んでいるのでは』ということに、最近気づき始めた。
 

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里山保全実践講座で、キツネが掘った穴を受講生に紹介する講師の真弓浩二さん(中央)=北高上緑地で

 
 「山怪」の著者、田中さんは言う。「話というものは、本来語られることで生きながらえる」 
 幸い「にっしんの里山」北高上緑地は残っているし、キツネも棲んでいる。キツネが掘った穴を指さして「これがキツネの棲みかだよ」と教えてあげれば、子どもたちは「へぇー」とうれしそうに叫びながら、興味深そうに穴をのぞき込むことだろう。キツネの話をしても、違和感を覚えることはないに違いない。

 「この里山にはキツネが棲んでいるんだよ。そのキツネがね…」
 「それに、ここにはタヌキもいてね…」
  
 「おじいさんは山へ柴刈りに…」という「桃太郎」の昔話も楽しいけど、自分としてはキツネやタヌキの話の方が好きだ。

 奥山で謎の怪物と遭遇したマタギや登山者たちの恐怖体験ではなく、地域の里山に残っているだろう不思議な話、たわいない楽しい山怪話などを発掘し、子どもたちに語り続けられればいいなと思う。

 発掘が難しければ、創作でもいいのでは…。こんなことを言うと批判の声も出そうだが、かつて囲炉裏の前でおばあちゃんが話してくれた昔話だって、おばあちゃんの創作だったかもしれない。創作だって、それも文化である。

 〈発掘したり創作したり…。これって、体力を結構駆使する里山整備以上に楽しい作業かも!〉

 Aさんの実話半分、創作半分の楽しい「令和の山怪」話を思い出しながら、最近こんなことを感じている。